オンライン社会で楽しさを復活させていくこと(落合陽一さんの講演を聞いて)

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 コロナの時代で、オンラインが当たり前の生活が始まった。この中で、なぜか日常に物足りなさを覚える人も多いのではないだろうか?筆者もその1人である。

 そんな最中、落合陽一さんの講演「ポストコロナを見通す」を聞いた。ここでは私がぼんやりと考えていたことが言語化されて表現されていた。私の意見も載せながら講演を聞いて「オンライン社会で楽しさを復活させていく」ことについて論じてみたい。

定在する遊牧民:心をオンラインに浮遊させる

 まず講演の中で落合さんが使っていた言葉は「定在する遊牧民」という言葉だ。これはまさにコロナ禍における私たちの生活を象徴する言葉と言える。

 「定在する遊牧民」の簡単な定義はこうだ。遊牧民とは、その名の通り、牧草を求めて家畜とともに住みかを移動させながら暮らす民族のことだ。一方でここに「定在する」という真逆の言葉を付け加える。ここでは「定在」する物体を人間の身体、「遊牧」する物体を人間のアイデア(心)と捉えて、身体をある場所に定住させながらアイデア(心)をオンラインに浮遊させる状態を指す。これはまさに、コロナ禍の私たち人間の生活を指している。体は自宅にいながらオンラインで会議を行うリモート会議、体は移動しないでもインスタグラムで世界中の様子を写真を通じて垣間見られる世界、まさにここ1、2年で一気に加速度的に広がった世界に生きる私たちのことだ。

 この定住する遊牧民としての私たち、ポストコロナにおける現代人は、デジタルな世界で何か満たされないものを抱えているのではないだろうか?これを克服して、楽しい世界を復活させていくこと(この「楽しい」ことを、コンビビアル(convivial)と彼は表現していた)を考えていく必要がある、という話だ。

身体性:デジタル時代を楽しむキーワード

 そしてこの楽しさを再現するキーワードの1つが「身体性」であると表現する。自分の体を使って何かをすること・何かを表現することに楽しさが眠っているということだ。そして例えば身体性を使いながら楽しさを得る過程を、今の進化に重ね合わせて、デジタルとの共存を探っていくことが大切だということだ。

 私はこの落合さんの表現に、自分自身を強く重ね合わせることができた。私はこのコロナ禍で、音楽教室に通い始め、ギター・ピアノ・歌を習い始めた。途端に、世界が楽しくなったような気がしたのである。音楽を表現することは、まさに身体を使って表現することだ。だからこそ頭では分かっていても体がうまく動かなくてやきもきするシーンが多数ある。このうまく身体を使いこなせないことこそが「身体性」であると感じるのである。さらに、自分で音楽を表現する過程を動画配信サービスに素人動画として掲載してみた。この動画の中では、下手なことは全く気にしていない。むしろ下手な方が人間ぽくって味があるじゃん、ぐらいのスタンスだ。この生活を通じて、何かこれまでにない楽しみを感じたのである。

 これこそまさに、「身体性」を使って自己表現しながら、それをデジタルと融合することではないだろうか。デジタルと融合することで、私の場合は動画配信サービスへ投稿することで、これまでの時代にはなかった自己表現の場に身を置くことができている。

 上記の私の体験のように、身体性を使った体験は、その欲望が抑圧されていた分、これまで以上に楽しい体験となる。落合さんはまた、このような発言をしていた。「悦な体験以外はフィジカルでなくていい」と。私もこの考えに同意する。そしてこれからは「身体性」等をキーワードにした「楽しい体験」に、これまで以上にコストが投じられていく世界になっていくのではないだろうか。

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